漢語も外来語
一方で、「外来語であるカタカナ語ばかりの文章も分かりにくい」と言われます。「分かりにくいから、カタカナ語を日本語に置き換えましょう」、とかって。
その「カタカナ語の日本語への置き換え」には、多くの場合、「漢語」(漢字を組み合わせた造語も含む)が使われます。
そうやって、カタカナ語を漢語で置き換えてできた文章は、冒頭にも書いたように、「漢字ばかりで分かりにく~い」ということにも、なりかねません。
いや、確かに、漢字の造語力は大したものです。表意文字なので、字面を見ればある程度の意味を想像できます。
しかし同時に、それで何となく意味が分かった気になってしまう、という部分もあります。
カタカナの外来語というのは、中には、訳す努力を省略して安易に使われることもありますが、多くは、それが「もともと日本語にない概念」であるために、使われます。
その「もともと日本語にないもの」を無理に日本語に置き換えれば、少なからず、意味のずれ、誤解が生まれます。もともと日本語にない概念だから、ただ置き換えれば理解できる、というものではありません。
「カタカナの外来語ばかりの文章が分かりにくい」というのは、ただ単にそれが「カタカナだから」分かりにくいというのではなく、「もともと日本語にない概念、自分がそれまで身につけてこなかった概念だからこそ、分かりにくい」、というのも大きいのです。
だから、カタカナ語を日本語に置き換えて分かった気になっている人は、何となくカタカナ語を使って分かった気になっている人と同じぐらい思考が止まっている、と言えます。
もともと日本語にない概念である以上、適切な日本語への置き換えは、文脈によって変わってきます。機械的な置き換えでは、止まった思考を動かすことはできません。
そして、「漢語も外来語である」ということも、忘れてはいけません。
漢字は、中国から輸入され、二千年の時を経て、すっかり日本語の一部になってはいます。でも、完全に溶け合ったわけではありません。
日本語の持つ文法やリズムと、漢語の持つ文法やリズム(*1)は、異なります。
なので、日本語のリズムで文章を読んでいって、漢語に出くわすと、リズムが少し乱されてしまいます。一時的に頭の中の文法回路を切り替える必要が出てしまうのが、(漢語も含む)外来語を使った文章の読みにくさの原因だと考えられます。
また、漢語の同音異義語がやたらと多くなってしまっているのも、日本語の音とは構造が違う漢語の音を、少し無理して日本語の音に置き換えているからです。
というわけで、漢字ばかりの文章は、カタカナ語ばかりの文章と同じぐらい分かりにくくなってしまうのです。
「日本語は語彙が多い」と言われることもあります。
しかし、その大半は、輸入した漢語です。
日本語自体(いわゆる「大和言葉」)の語彙や概念は、漢字・漢語に頼ってきたためにあまり発達せず、実は結構貧弱だったりするのです(*2)。
- 余談ですが、僕は、「創作四字熟語」とかはあまり好きではありません。あれは、漢語の文法を無視して漢字を並べているので、気持ち悪く感じます。「そんな堅いこと言うなよ」と思われるかもしれませんが、もし、外国で、「創作日本語」とかって日本語の文法を無視した言葉が作られれば、きっと皆さんも、気持ち悪さを感じることでしょう。
- もちろん、日本語には、感情表現など発達している分野もあります。