自我は、2段階に渡って目覚めます。
まず1回目は、幼児期の反抗期。2回目は、思春期から青年期にかけて。
…と言われても、「自我って何?」という感じでしょうから、自我を僕なりに定義します。
生まれる前まで、人間は母親と一つに繋がっています。その延長で、生まれた後も、「自分と他人」という認識はあまりなく、その意識は母親と一体化しています。
そんな状態です。
これは、赤ん坊は自分の力だけでは決して生きていくことができないのですから、当然のことです。独立して生きていくのが不可能なため、母親と一体化することで何とか生き延びます。
尚、この文章では、「生物として生きるために必要だから、そうなっている」という観点で、話を進めていきます。
しかし、もしただ一体化するだけの存在であったら、わざわざ生まれては来ないのではないか…とも思います。
母親の胎内で、へその緒を通して栄養をもらってる方が、手っ取り早いからです。
そんな未熟な状態でもあえて生まれてくると言うことは、きっと、精神の片側で母親と一体化しながらも、もう片方では自我を目覚めさせる準備をしているのだろうと思います。
そんな赤ん坊も、最初の反抗期を通して、「自分は自分である」ということを認識します。
そして、自分が独立した存在であることが、分かってきます。
ただし、この時の自我の目覚めは、不十分です。なぜなら、まだ一人では生きていけないからです。
だから、まだ自分の意識の中の少なくない部分で、親をはじめとする大人達と一体化しています。
さて、いよいよ、大人になるための準備。
親や大人達と一体化するのではない、むしろ大人達を批判しながら、真の自分を作り上げるときです。
…でも、なぜそうする必要があるのでしょう?いい子にしてた方が楽なのでは?
その理由は、「時代も環境も、常に変化するから」です。
もし、時代も環境も何も変わらないのであれば、きっと人間は、大人の言うことに忠実に従うような生物になっただろうと思います。
しかし現実には、全てのものは変化しつづけます。
仮に人生80年、30で子を産み、20で大人になるとすれば、子供が20で成人したとき、親は残り30年の人生なのに対し、子供は残り60年を生きねばなりません。
親が想定する必要のない30年を、子供は想定しておかなければならないのです。
全てが変化しつづける以上、親の想定する人間像・未来像に忠実に従っていたら、子供は残り30年に全く適応できなくなる恐れがあります。
だから、自分が自分として生を全うするために、親や大人達とは別の自分を作り上げる必要があるのです。
念のため言っておくと、「変化」というのは、結果として起こることです。別に、変えようと思って変わるものでもありません。
また、変わることそのものに、「良い」とか「悪い」とかはありません。「良い」や「悪い」は、自然界に最初から存在するものではなく、人の意識が決めることだからです。
こうしてめでたく、残り60年の人生を送る立派な大人が出来上がりました。めでたしめでたし。
…と、ハッピーエンド出来ないことの方が、多いでしょうね。きっと。
実際、自我の覚醒においてどんな問題が発生するか、この文章、ここからが本題です。
「子供を自分の思い通りに育てたい」と、多くの人は思います。
前述の通り、全てのものは変わり続けます。「安定」なんてものは、幻です。
もしかしたら、その「安定」は、残り30年の親にとっては事実なのかもしれません。でも、残り60年の子にとっては、ただの幻かもしれないのです。
そんな幻を押し付ける…勝手なもの。
子供が残り60年を充実させるより、親が残り30年を充実させることを優先した理想の子供像を描いている…とも言えるでしょう。
子供の方は、前述の通り大人達とは別の自分を作り上げようとします。一方で親の理想像・未来像を押し付けられたら、どうなるか…
「生物として、今、生きることを優先する」という観点から行くと、思春期の段階では、まだ子供は、独立して生きていくことができません。だから、親と別の自分を作り上げようとする一方で、そうするだけでは生きていけない、と思ってしまうのです。
その相反する二つの方向の力が働いて、その矛盾は強いストレスとなります。
ストレスとは何か?簡単に言うと、神経の破壊です。
そしてこのストレスは、他のさまざまなストレスと合わさって、じわじわと自分を侵食し、ある日、神経の障害(鬱やパニック障害)となって現れます。
ただし、適度なストレスは、人の成長に必要です。
例えば、スポーツ選手が、思うようなプレーができなかったり、試合に負けたりしたとします。
これはストレスです。
そのストレスを解消しようと、工夫したり、練習したりするでしょう。
そして、思い通りのプレーができたり、試合に勝ったりすれば、その「達成感」によりストレスが解消され、後には成長だけが残ります。
また、我慢せずに育った子供より、我慢しながら育った子供の方が、頭が良くなるという研究結果もあります。
問題となるのは、解消されないストレスです。
24時間365日、達成感も何もなく、ただただイライラが募るようなストレスが、神経を破壊します。
いい子でいるということは、自分の欲求を押し殺し、我慢することです。
我慢するから、成績は良くなります。
しかし、その裏には、ストレスによる崩壊の危機を抱えています。
この悪夢から逃れる一つの手段は、「自分の居場所を見つけること」です。
きっと、「ここに居ていいんだ」という場所を見つけられれば、そこで生きていける気がして、救われ得るのではないかと思います。
生きていけないと思えばこそ、精神が引き裂かれてしまうのですから。
上で述べた問題が起こるのは、圧倒的に、長男・長女・一人っ子に多いですね。
子育て一人目だと、肩に力が入って、親は子供を思い通りにコントロールしたがるのですが、二人目以降になると、「どうせなるようにしかならんだろ」って感じで、いい感じに開き直れるようです。
…あるいは、長男・長女には、自分の老後の面倒を見させたいのかもしれません。
ODAで、「援助」と言いつつ、自国の産業に仕事を回して、援助する側が潤うようなものです。
日本では依然として、独立した人格として認めない「子は親の所有物」という考え方が根強く残っています。
親子の無理心中を、「殺人」ではなく、「親の自殺」の延長と見たりします。
言ってみれば、子供を、銀行預金のようなただの「財産」として見ているわけです。
ペットのような所有物扱いをして、犬に芸を教え込むように、親の期待に添わなければ怒鳴り散らす。所有物扱いする一方で「自立しろ」と矛盾を強要する。
壊れない方が不思議です。
さて、これは昔からなのでしょうか?というわけで、歴史に対する考察。
江戸時代、農家では、女性も立派な働き手です。当然、子供に構ってられません。では、誰が子供の面倒を見たのか?
当時は、長屋で共同生活だったので、ご近所と共同で面倒を見ました。特に、既にリタイアした「ご隠居」あたりが、よく面倒を見たのではないかと思います。
つまり、親自身はあまり子育てせず、人生のベテランに任せておけば済んだので、子供を思い通りにするも何もなかったのだろうと思います。
身分制度によって、あまり職業選択の余地もなかったでしょうしね。
明治になって、「家制度」が作られました。
これは何なのかというと、結局のところ、「男を戦場に送り込むための制度」です。
家単位で国民をしっかり管理し、徴兵も家毎に行うわけです。
そして、旦那が戦場に送られたら、奥さんはしっかり家庭を守らねばなりません。こうして、「専業主婦」が生まれ、母子密着・孤立の原型が作られました。
これは戦後、そのまま今度は「男を安心して企業戦士としてこき使うための制度」となりました。
その内、職業選択の自由が広がり、同時に日本社会の生産力が向上し、失業率が実質10%程度になっても、街には物があふれるようになりました。
つまり、みんながむやみに働かなくても維持されてしまう社会になったことで、生き方の選択に多くの迷いが生じ、一方で親は戦後の成功体験が忘れられないまま子を意のままに操ろうとし、多くの若者がストレスで壊れ、五木寛之氏の言う「心の内戦」に敗れ(作家の五木寛之氏は、銃弾一つ飛んでこない日本で多くの人が自ら命を絶つ様子を、「心の内戦」と表現しました)、散っていきました。
このように書くと、「みんながサービス残業までして必死になって働いてるから、何とか社会が維持されているんだ」と言う人もいるかもしれません。
でもそれは、逆だと思います。
その労働が、本当に社会の維持に必要とされているものなら、それに対して十分な対価が支払われるはずです。
しかし、そこまでの労働の需要がないから、十分な対価が支払われず、サービス残業が横行することになります。
本来、残業代を払うよりは、新たに人を雇った方が安くつくはずなのですから。
この辺りは、ヨーロッパと日本の、社会の成熟度の差、と言ってもいいでしょう。
社会の持つ基本的な力に、GDP等の見かけ上の数字だけでは見えてこない、大きな差があるように感じます。
日本は、十分な内実を伴わないまま、見てくればかりにこだわって、数字を大きくし過ぎました。
「話せば分かる」と軽々しく口にする人は、「自分に理解できないものはこの世の中に存在しない」と思い込んでいる傲慢な人かもしれません。
この世の中に絶対的な価値など存在しない以上、自分の価値観をむやみに押し付け、それが正しいと信じて疑わない人は、「無知の知」を知るべきでしょう(自戒も込めつつ)。
上で、「みんながむやみに働かなくても維持されてしまう社会」と書きましたが、こう書くと、「でも働かなければ生きていけない」と、多くの人が言うでしょう。
これは、「人間が『生きたい』と思うのは当然であり、どんなことをしてでも生きることが最優先である」という価値観が前提となっています。
五木寛之氏は、戦後の引き揚げという混乱を経験されたそうですが、その時の方が「生きてる実感があった」と書いていらっしゃいました。
つまり、人間は、「いつ死ぬか分からない」と思えばこそ、「生きたい」と感じ、「今、自分は生きている」と感じるわけです。
しかし、あまり死を実感できなければ、生きていることも実感できず、「生きるか死ぬか」よりも、「どう生きるか」を優先するようになっても、不思議ではないでしょう。
こうなると、「自分を壊してでも、泥水をすすってでも生き延びよう」とは、もう思えません。「そうまでして生きる意味はない」と思うようになります。
別に、良いとか悪いとかではなく、結果として、そういう感じ方になります。
上の両者がどんなに議論してみたところで、結論が得られることはありません。
議論というのは、前提という出発点が同じで初めて成り立つのですが、その前提となるべき価値観が、全く違っているからです。
全く違う出発点からどんなに論理を積み重ねてみたところで、決して相容れることはありません。
日本国内でどんなに線路を延長してみたところで、決してアメリカの線路に乗り入れることはできない、ということです。
自分が正しいと信じ、話せば分かるのが当たり前と信じ、自分の価値観を相手に押し付けようとするのは、間違いです。
専業主婦は、がんばっても達成感がない、とよく言われます。そのため、自分の達成感を、子供の達成感で置き換えようとしてしまいます。
手っ取り早く達成感が得られるものは何か?
それは、数値という単純な一次元のものさしで測られる「成績」、それも「テストの得点」です。
本来、テストというのは、理解の程度を測るための「手段」に過ぎないのですが、得点という結果の「単純さ」と、手っ取り早く達成感を得たいという「飢え」から、点を取ること自体が「目的」であると錯覚してしまいます。
よく、「なぜ勉強しなければならないのか?」という問いに、「世の中には、嫌でもやらなければならないことがある」と答える人がいます。
それに対して、僕は、「世の中には、テストの点のように手っ取り早く結果が得られるものばかりではなく、なかなか結果が出なくても、可能性を信じて努力すべきこともある」と言いたくなります。
自分が達成感を得られないという不満だけで、「嫌でもやらなければならないことがある」なんてしたり顔をすべきではないと思います。
これからどうなるのか、どうすべきなのか、明確な答えは持ち合わせていません。
一つ言えることは、江戸時代に戻ることはありえないし、戻りたいとも思いません。
全ては変わり続ける以上、過去に答えはありません。でも、ヒントはあります。
理想論と批判されるのを覚悟の上で、ポイントを挙げておきます。
って感じで、結末はお粗末様でした。