社会 《 覚書彷徨の神殿

からっぽの経済学(解説)

Empty Economics(Explanation)
2004.08.10

『からっぽの経済学』、解説をつけておきます。

なお、この文書で一番言いたいことは、「経済は、動いた金額に見合うだけの生産が為されなければ意味がない」ということです。

経済の始まり

経済は、物々交換から始まりました。

とりあえず、お話の形で書いてみます。


むか~しむかし、あるところに、米を作っとる吾作どんと、魚を捕っとる波平どんが、隣に住んどったそうな(昔話調、面倒なのでここまで)。

吾作どんは、毎日米を食べながら、「あ~、たまには米以外のものも食べたい…魚でも食べたいなぁ…」と思っていました。

一方波平どんは、「毎日毎日魚ばかり…たまには他のもの…米でも食べたい」と、思っていました。

ある日、吾作どんは、食べきれずに余りそうな米を見て思いつきました。

「そうだ。この米を波平どんにあげて、代わりに魚をもらおう。」

その申し出を、たまには米でも食べたいと思っていた波平どんが断る理由はありません。

二人は米と魚を交換し、互いに望みを叶えることができました。

めでたし、めでたし。


「経済では、誰かが得をして、その分誰かが損をして、その損得を全部足したらゼロになる(*1)」と思っている人が、少なからずいます。

しかし、上の物々交換では、二人がそれぞれ得をしています。

このように、本来、経済とは、皆が互いに得をし合うものです。

貨幣経済

物々交換から、物を使った貨幣の導入

物々交換、上のように単純な取引の内はいいのですが、品数が増えてくると、やっかいになってきます。

例えば、相場が次のようだったとします。

さて、魚30匹は銀何gで買える?

…別に計算しなくていいですよ。適当に書いてみただけだから。ただ、ややこしさが分かってもらえればいいです。

このややこしさを解決するために、例えば「米」を基準にすることを考えてみます。

だいぶ分かりやすくなりましたね。これが貨幣の始まりです。

より抽象的な貨幣

前項では、「米」を貨幣にすることで、分かりやすい価値基準を作ることができました。

…が、「米」では少々問題があります。米の価値は、不作の時と豊作の時では大きく変わってくるからです。

米そのものの価値が不安定なので、それを基準にしたものの価値も、全体に不安定になってしまいます。

そこで、より抽象的な貨幣(私達が日々使っている「円」のようなもの)を導入します。

この抽象的な貨幣は、原則として、時が経っても価値は変わらず(価値が変わるのは、あくまで物の方)、全国どこでも同じ価値で使えます。10年前に稼いだ300万円が、今年使うと100万円にしかならない、なんてことはないし、北海道で稼いだ10万円が、大分では8万円としてしか使えない、なんてこともありません。

…という条件の下、「貯金は損か得か」を単純に考えると、物価の上がる「インフレ」の時は、貯金は損、物価の下がる「デフレ」の時は、貯金は得、と言うこともできますね。

日本でのこのような貨幣の歴史は、中国から銅銭(だったかな?)を輸入することで始まりました。

しかし、最初の頃は、「貨幣」の意味が理解できず、それ自体が価値のあるものと勘違いしてお金をひたすら貯め込む人が続出、なかなか広まらなかったらしいです。

それで、「みんなでお金を使いましょう」なんてお触れが出されて、やっと貨幣経済が動き出した、という話。

いくらお金を貯め込んだって、お金そのものは何も生み出さない、金額はただの数字なのにね。

未来の貨幣

ついでに、未来の貨幣について、少し考えてみます。

と言っても、電子マネーがどうとかって話ではありません。たとえ、お財布ケータイで現金を持ち歩かなくて済むようになったとしても、そこでやり取りされる貨幣自体は、あくまで現在の貨幣です。本質的な違いはないので、僕は、こういったものを未来の貨幣とは呼びません。

現在の貨幣の問題点は、それが正当な手段で手に入れたものか、不当な手段で手に入れたものか、全く分からない点です。

まじめにコツコツ働いて手に入れた貨幣も、不正な行為で得た貨幣も、結局はただの「金額」という数字に置き換わり、区別がつきません(ついでに、不正な手段で手に入れたことがばれないように工作するようなことを、「マネーロンダリング(資金洗浄)」と言うらしいです)。

また、貨幣を使う段においても、それが社会に有益か有害かの区別はされません。

人の命を救うために使われる貨幣も、自然環境や社会環境を破壊するために使われる貨幣も、結局同じただの「金額」という数字です。

だから、ただ利潤を上げるという目的だけで多くのものが破壊される一方(身近な例では、景観を破壊する高層建築物等)、いわゆる「途上国」では、医薬品が買えないために多くの人が命を落とすことになります。

数百年後の未来の貨幣では(百年後に実現できたら上出来)、こういった問題がある程度解決されているでしょう。

貨幣にはその経歴も記録され、例え盗んでも勝手に使うことはできなくなります。

また、特定の用途にしか使えない「目的貨幣」といったものも導入されるでしょう。

例えば、「安価な食料専用の貨幣」が、誰でも簡単に手に入れられるようになったりします(日本だったら、お米専用、とかかな)。

世間のがんばり屋さんたちは、「そんなものが簡単に手に入るなら、誰もまじめにがんばらなくなる」とか言うかもしれません。

でも、人間は本質的に、「努力して何かを成し遂げたい」という欲求を持っています。

「贅沢品の貨幣」を手に入れるには、ある程度の努力が必要、という仕組みにしておけば、がんばりたい人は、それなりにがんばります。

ただし、社会の人全員ががんばって資源を浪費する必要はありません。資源には限りがあるのですから、がんばりたい人はがんばって、がんばりたくない人、がんばれない人は、がんばらなくてもいいのです。

…なんか「がんばる」という単語が並んでしまいましたが、なるべく分かりやすく書こうとした結果です。分かりやすいかどうかはともかく。

なんせ、想像するしかない未来の話なので、ね。

現在でも、特定の地域だけで使える通貨、といったものが一部で使われていて、これらは、未来の通貨の一つのモデルになると思います。

生産とは

冒頭、経済は、生産が伴わなければ意味がない、と書きました。

ここで、「生産」の意味を僕なりに定義しておきます。

「生産とは、誰かを幸せにすること」

金額は何も生み出しません。生み出すのは生産活動であり、経済とは、それ自体が何かを生み出し得る「目的」ではなく、生産と消費を結びつける「手段」に過ぎません。

つまり、世の中の全ての人が銀行員だったら、みんなあっという間に飢えてしまう、ということです。

いえ、決して銀行員を悪く言うつもりはありません。銀行の融資を受けた会社が生産をすれば、現在の社会の仕組みの中で、銀行は間接的に、その生産の一部を担ったことになります。

また、「生産」は、物の生産だけではなく、サービス等の生産も含みます。

例えば、「流通」。

流通は、ただ物を動かすだけではありません。

流通があるお陰で、例えば、北海道で取れた利尻コンブを使って、東京でダシを取れたりします。

何もしなければそこにはあり得なかった物が、流通によってそこに持ってくることができ、そこにいる人の幸せが増える — 立派に生産されています。

金額と生産

あなたは毎日、喫茶店でコーヒー1杯を500円で飲んでいました。

しかしある日、急にコーヒー豆が高騰したとかで、コーヒーが1杯5万円、100倍の値段になりました。

それでも、5万円を払ってコーヒーを1杯飲みました。

さて、あなたはいつもより100倍幸せになったでしょうか?

…んなわけはありませんね。

動いた金額に関わらず、コーヒー1杯分の幸せはコーヒー1杯分の幸せです。

数字だけで幸せは測れません

前節で、生産とは幸せだということにしました。

となると、生産量とは幸せの量、ということになります。

ところで、幸せは金額だけでは測れない、と、この節で書きました。

ということは、本当の生産量は、金額だけでは測れない、ということになります。

バブルで誰が困るか

肩たたき券バブルで、1枚1億円になった肩たたき券。困るのは誰でしょう?

それは、本当に肩がこっている人です。

肩のこってない人が肩たたき券を持っていたって、何の生産もされません

肩のこっている人が肩たたき券を手にし、叩いてもらって初めて、そこに幸せが生まれます

使ってこその肩たたき券、更なる値上がりを期待して貯め込んだって、誰も幸せになりません。

最後には、そんな値上がりゲームから一人一人降りていき、バブルが弾けて売るに売れないただの紙切れになってしまいます。

結局、どんなに数字の上で好景気となり、一部の人が数字を儲けたところで、「本当の生産量=幸せの総量」は全く増えないからっぽの好景気でした。

だから、タイトルが「からっぽの経済学」

  1. こういうのを「ゼロサムゲーム」(zero-sum;総和がゼロ、の意味)と言うらしいです。
    例えば、コインを賭けるカードゲームとかで、互いの持ち点を奪い合うようなのを言います。
    クイズ番組とかでもありますね。
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