人間がロボットやコンピュータと大きく違うところは、人間は「命令を忠実に実行するようにはできていない」ということです。
これを忘れて、人間をまるで機械を扱うようにコントロールしようとすると、そうされた人間は「生きる意欲」を失ってしまいます。
人間が「人間らしく」生きられる道筋を、つらつら考えてみようかと思った次第です。
仮に、人類がとても賢くなったとします。すると、どんな世界になるでしょうか?
最低限の資源の消費で多くの人が共存し得る、ある意味では「理想的な世界」です。
そんな世界を、「とても賢い世界」と呼ぶことにします。
一般に、芸術作品など、完成されたものよりも不完全なものの方が面白かったりします。
完成されているということは、行けるところまで行っちゃった、もうそれ以上どうなりようもない、ということであると言えます。つまり、それ以上変化しない、動きがない。ダイナミズムに欠けて、ある意味、退屈に感じたりします。
一方、不完全であるということは、完成に向かって変化する余地がある、動き得る、ということだと言えます。まだ「その先がある」、ということが、人の想像力を無意識の内に刺激し、面白さを感じさせます。
例えば僕は、完成した東京スタジアム(現味の素スタジアム)よりも、建設途中の、鉄骨剥き出しの東京スタジアムが好きでした。そういう現在進行形の状態に、面白さを感じます。
なぜ、そういう不完全さを面白いと感じるのかと言えば、生物の本質は「変化」だからです。生物は、環境の変化の中で生まれ、自らも常に変化し続けます。だから人間も、変化するものを「面白い」と感じます。
…まあ、若いほど、変化のある不完全なものを好み、年を取るほど、変化しない完成されたものを好む、という傾向はありそうですけどね。
上で書いた「とても賢い世界」は、「完成された世界」であると言えます。きっと、そんな完成された世界は、人間にとっては退屈で生きにくい世界になってしまうでしょう。
人間は、そんな「永遠に未完成」な存在で、そんな不完全なところがいとおしく、また、それこそが人間性なのかもしれません。…多分。
仮に、「とても賢い世界」を実現しようということになったとしましょう。でも、実際の人類は愚かです。愚かな人類を、どうやって賢くしましょうか?
一つ考えられるのは、「人を枠に押し込めてしまう」方法です。四角いスイカを作るように、カップ型のゼリーを作るように、人を枠に当てはめます。そして、大きくなったスイカを取り出せば、冷蔵庫で冷えて固まったゼリーを取り出せば、枠に慣れきった人々から枠をはずしてしまえば、そこには「とても賢い世界」ができあがっている、人類は賢くなっている…という方法です。
この、「人が枠に押し込められた状態」を、「枠にはめられた世界」と呼ぶことにします。
因みに、こういう世界では、枠にはまらない人間、はまろうとしない人間は、排除の対象になります。
「とても賢い世界」へ向かうための「枠にはめられた世界」、どんな枠が必要か、冒頭で挙げた三項目で考えてみましょう。
枠にはまってれば、自分の頭を使わなくても賢い生き方ができる、なんて楽な世界なんだろ~…って、思います?
枠ができてめでたしめでたし…と思ったら、どうもうまくいきません。人々が働く意欲をなくしてしまいました。どうしてでしょうか?
「だって、生産する量が決まってたら、がんばってたくさん生産して儲けたりできないじゃん。」
まあ、それも間違いとは言えないのですが、報酬が増えなくても意欲的に働いてる人はたくさんいます。報酬が増える・増えないは、本質的な問題ではありません。
人々が働く意欲、延いては生きる意欲をなくしてしまった本当の理由は、「人間は、人に言われたこと、命令されたことを忠実に実行するようにはできていない」からです。
人間は、自らの感覚で世界を感じ取り、自らの意思で行動するようにできています。それを無視して、人間をまるでロボットのようにコントロールしようとすると、そうされた人間は、人間として生きることを否定されたように感じ、生きる意欲をなくしてしまうのです。
だから、生きる意欲をなくし、命の重さを実感できないでいる子供や若者に、「命の大切さを徹底的に叩き込もう」なんて考えるのは、ナンセンスです。そんな、人の心をロボットのようにコントロールできる、コンピュータのようにプログラムできるという考え方では、犬に芸を教え込むことはできても、人の生きる意欲を引き出すことはできません。
ベルトコンベアというものがあります。
ベルトの上を製品が移動していって、その脇に作業者を配置しておいて、部品の取り付けなどの作業をしていきます。ベルトの上を移動しきった時には製品が完成している、というものです。
この方式の利点として、次のようなものが挙げられます。
次のような欠点もあります。
ベルトコンベアによる生産は、一種の「枠にはめられた世界」と言えます。
「枠にはめられた世界」は、意外と身近なところに存在しています。「枠にはめられた世界」を散々非難してるような人達も、一方では、他人に枠をはめていたりするのかもしれません。
最近は、ベルトコンベアに代わってセル方式というものが多く取り入れられています。
バラバラの部品から製品の完成までの作業を一人で行う、というものです。
次のような利点があります。
少なくとも、ベルトコンベアという「枠にはめられた世界」よりは、ずっと人間的な作業ができそうです。
Linux等はオープンソースの形で開発されています。まあ、詳しくは知りませんが、簡単に言うと「みんなで作ってみんなでタダで使いましょう」ということのようです。
これは、次の点で、「とても賢い世界」に通じるものがあります。
世の中には、次のようなものがなければ人は動かせない、と思っている人もいるかもしれません。
しかし、誰かに命令されたわけでもなく、高額な報酬を得るという動機があるわけでもなくても、人はこれだけのものを自発的に生み出します。人を動かすのは命令や報酬だけではない、と、心に留めておきましょう。
ただし、Linuxはビジネスに使われることもあります。当然、そこには「金銭という動機」が存在します。その意味では、「半とても賢い世界」、あるいは「そこそこ賢い世界」というところでしょうか。
こういう具体例を見ると、「とても賢い世界」は、全くの夢物語というわけでもなく、ある程度は現実化し得るものであると分かります。
純粋な「とても賢い世界」は、何か退屈そうですが、この「そこそこ賢い世界」は、これからあるべき社会モデルを示唆している気がします。
フィンランド、以前から個人的に、いろいろと気になる国でした。ハイテクが盛んなところとか、自然環境とか、福祉の充実とか、ね。
2004年末、経済協力開発機構(OECD)の国際的な学習到達度調査(PISA)とかいう調査の結果が発表され、フィンランドは非常に好成績を収めていました。
これについて、2005年2月20日付朝日新聞朝刊に、フィンランドの教育についての記事が書かれていました。なかなか興味深い内容だったので、ポイントを拾ってみます。
一方的に、これをやってきなさいと言っても、なかなかやってこない。しかし、「もっと勉強したい人は、この問題を解いてみたら」などと投げかけると、ほとんどの生徒が取り組むという。
高校進学は中学卒業時の成績で決まり、自分で卒業成績が低いと思えば、もう一年余計に中学へ通うことも可能だ。その場合、「落ちこぼれ」と言われるどころか、むしろ「長い期間、勉強した」というとらえ方をされる。(中略)
「他人と比較して上か下か、という考え方をしない。(中略)個人主義が徹底された社会が背景にあるのだと思う」
「国はカリキュラムの大枠で目標を定めるだけで、達成方法は各学校の校長に委ねられている」
「日本や韓国が高得点をあげていた従来の国際調査は、詰め込まれた知識量をみるものだった。それを見直して、生涯にわたって学習する能力を身につけているかどうかをみるための指標として始まったのがPISA。だから、暗記や暗唱が中心の教育に戻したり、授業時間を増やしたりする方法では、日本の教育が抱えている課題は解決できない」
楽しんで学ぶことがフィンランドの教育の特徴
全体として言えるのは、「枠に押し込めない」ってことです。
その視点で、各項目について見ていきます。
結局、枠に押し込めようとしないことが、人の意欲、能力を引き出せて、それが人間らしく生きるってことなのだと思います。