ここでは、ワークシェリングの実現方法として、「週3日間だけの労働」を推奨してみたいと思います。
なお、ここで述べるのはあくまで「基本的な考え方」であって、どう応用するかはケース・バイ・ケースです。
仮に、社会の生産力が不足したとします。すると、どうなるでしょうか?
お腹を空かせて店にいく。でも棚はからっぽ、何も売ってない。
お金があってもモノが買えず、モノの値段が上がっていく「インフレ」になるでしょうね。
これを解決するには…「みんなで働いてモノをたくさん生み出しましょう」ってな感じで、がんばるしかなさそうですね。
というわけで、こういう「モノが足りない時代」には、「がんばる⇒豊かになれる」という関係が成り立つわけです。
また、一般に経済の観点からは、「緩やかなインフレ」がいいとされています。需要が生産力を上回っていれば、がんばればがんばっただけ、モノが売れて利益が出るからです。社会全体のバランスとか、微妙で複雑なことを考えなくても、単純な一本調子の思考だけでやっていけます。
なので、モノ不足の時代を経験してきた人達は、「がんばる」ことが正しいと信じて疑うことはありません。
仮に、社会の需要が不足したとします。すると、どうなるでしょうか?
「奥さん、これ買ってよ。」
「それ、別になくても生きていけるもん。これから何が起こるか分からないし、ダンナもいつ失業しちゃうか分かんないし、老後のことも心配だし、余計なモノを買わずに貯金しときたいの。」
「そんなぁ。安くしとくからさぁ。」
と、なかなかモノが売れずに値下がりする「デフレ」になります。
解決方法としては、次のようなものが考えられます。
人の「欲しい」という気持ちを刺激する正攻法です。
新たなライフスタイルの提案などで需要を増やそうとするわけですが、次の項目の「需要を減らしている原因」を取り除かなければ、あまり大きな効果は期待できません。需要Aが減って需要Bに乗り換える、という限られたパイの取り合いに終わり、社会全体の底上げは困難です。
また、需要(この文脈では消費の意味)を増やすことは、資源の枯渇や自然環境の悪化を招き、長い目で見れば自分達の首を締めることにもなります。
先行きが不安だから需要が減ってしまうわけで、その不安を取り除きます。
つまり、老後もちゃんと生活できる、とか、病気を患っても安心、とか、失業しても路頭に迷ったりしない、という保証をします。
しかし、人々が安心して暮らせる社会保障制度を再構築するのは、なかなか困難な仕事です。少なくとも一朝一夕で成せるものではありません。
また、巨額の貯蓄に税金をかけて無理矢理使わせる、という荒技も考えられます。
…実際にこれをやったら、銀行の大口顧客が一斉にタンス預金に切り替えて徴税逃れの大混乱…かなぁ。やっぱ。
あと、「ケインズ革命」というものもあります。公共事業によって、需要を減らしている原因(失業)を取り除こう、というものです。
ただし、公共事業が有効なのは、「生活必需品も買えない」人が溢れている社会に対してのみです。そういう人達に仕事を与えれば、確かに、得た報酬で生活必需品を買うでしょう。しかし、現代日本のように、大半の人が「とりあえず必要なものは一通り持ってる」状態では、まったく効果は得られません。将来の不安が取り除かれない限り、浮いた分は全て貯蓄に回ってしまいます。
半世紀以上前のアメリカで有効だった方法が、現代日本でもそのまま有効、なんてことはありません。
上の二項目がすぐには実現できない以上、現在の限られた需要を、みんなでうまく分け合って何とかやっていく方法を考えます。
この文書で主題に置くのは、「生産力の不足」ではなく、この「需要の不足」の方です。また、解決方法として、三つ目の、実現の可能性のある「限られた需要のやり繰り」を考えます。
「需要」は、「必要な仕事の量」と言い換えることができます。
みんなでこれだけ働けば社会はやっていける、社会がこれだけの仕事を必要としている、っというのが需要です。
余談ですが、需要不足で「社会から必要とされていない」ことが、NEET等の一つの原因になっていると思われます(と、他人事みたいに書いてみる)。
また、サービス残業は、決して「ものすごく必要とされて残業している」わけではなく、逆に「需要不足で、十分に社会に必要とされていないから、その仕事を買ってもらえていない(不当に安く買い叩かれている)」と考えるべきです。
ところで、前節では「需要を分け合って何とかやっていきましょう」というのを、需要不足の解決方法として示しました。
ということはつまり、解決方法は「仕事を分け合って何とかやっていきましょう」、すなわち「ワークシェアリング(work-sharing; 仕事の分かち合い)」になります。
そして、この文書で提案するワークシェアリングの方法が、「週3日労働」です。
週3日労働だからといって、職場が週3日しか稼動しないわけではありません。
一つの仕事に最低2人は就き、交代でも勤務できるようにする等、弾力的に対応します。
必ずしも全員が一斉に勤務する必要はありません。
雇用者が労働者に対して支払う金銭は、「勤め人の生活の面倒を見る給料」ではなく、「労働の対価としての報酬」とすべきである、と考えます。
「給料」というのは、いわば「お小遣い」、雇用者が「親」で労働者が「養われている子」という関係です(参考文献[1])。
これでは、雇用者が上、労働者が下という上下関係になってしまって、労働者は自立できません。「社会を支える一市民」のはずの労働者が、雇用者に依存し養われてしまっている限り、民主主義は成立しません。雇用者には逆らえないからです。
このように、「生活給」という考え方は労働者を依存させてしまうため、あえて「報酬」という単語を使うことにします。
雇用関係は、どちらが上でも下でもなく、労働と報酬のギブ・アンド・テイクです。
週3日労働を導入した場合、週5、6日の労働と比べてコストがどう変わってくるか、を考えてみます。
労働量当たりの報酬は、特に変わりません。
1人で週5日より2人で週3日ずつ計6日の方が、一人当たりの生産量は減る代わりに、組織全体の生産量は上がります。
人数が増えれば、管理コストも増えるでしょう。
個人への支給品やさまざまな手続きにかかるコストです。
とりあえず、管理コストは元々あまり大きな数字ではないことが多いので、一度軌道に乗ってしまえば、大した問題にはなりません。。
人員が増えれば、その分、教育すべき人数も増えるわけで、この育成コストはそれなりの「初期コスト」(*1)になります。
人員が多ければ、人材損失のリスクを緩和することができます。
例えば、手塩にかけて育てた三人の人材が、一人やめてしまったとします。
そうすると、まず、育成コストの三分の一が無駄になります。また、抜けた穴を二人で埋め合わせするのも大変になります。
しかし、六人手塩にかけて育て、一人がやめたとしても、無駄になる育成コストは六分の一、また抜けた穴の埋め合わせも五人でできます。
もちろん、二人やめれば同じことですが、二人同時にやめる、という可能性は低いので、一人やめたところで穴埋めしつつ、新たな人材を確保できます。
つまり、週3日労働で人数が増えれば、人材損失のダメージを緩和することができます。一人が抜けても、その穴をカバーし合って致命的ダメージを防ぐのが「組織力」というものです。
普段から余力を使い切っていると、いざという時にそれ以上の対応ができなくなります。
しかし普段は余力を持たせておけば、非常時に緊急対応をすることが可能になります。
「週3日労働」と言っても、突発的な非常事態においては、一時的に週5日で対応することもあり得、そういうリスクマネジメントの意味も込めての、「週3日労働」です。
もちろん、実際のコストは具体的なケースによって千差万別でしょうが、週3日労働のプラスとマイナス、短期的にはマイナスでも長期的にはプラスになると思います。。
例えば、オフィスに導入したらどうなるか、について、ざっと考えてみます。
大したことは書けませんけどね。
個人専用の机はなくします。
一般には散らかしてる人が多いと思われますが、散らかす場所がなくなれば散らかることもなくなる(といいな)、ということです。
人間、無いなら無いなりに工夫するので、身軽になりましょう。
自由に座れるテーブルの類と、個人での作業用に共用の机等を使うことにします。
今の世の中、情報の記憶はコンピュータでできること。特定の誰かが隅々まで記憶する必要はありません。
組織は、情報や目的意識、問題意識を共有しなければ、組織力は発揮されません。
つまり、特定の誰かが情報を抱え込んでいては、みんなでそれについて十分に考えることができない、ということです。
だから、個々人は情報を、誰でも手に取りやすいような場所(あるいは皆がアクセスできるネットワーク上)に置いておく必要があります。
こういうのをちゃんとしてないと、特定の誰かがいないときに何かあっても、「担当者がいないので分かりません」としか言えなかったり、誰かがいきなり去ってしまうと仕事の引き継ぎに一苦労、といったことになります。
週3日労働では、一つの仕事に最低二人は関わることになるので、二人の間で円滑な受け渡しをするためにも、情報の共有は大事です。
で、こうやって情報を共有するなら、個人の机はなくても構わない、ということにもなります。
個々人の主な役割は、「情報を暗記すること」よりも「関する情報を作り出すこと」になります。
何かに関する様々な作業(分析であったり、予測であったり)によって得られた結果を、他の人にも分かるように編纂し、他の人と共有できるようにします。
他の人にも分かるように、というのが大事です。これによって、問題意識等を組織で共有でき、足りないところをカバーし合い、皆で考えることができます。
ここでは、週3日労働を実現するための組織のあり方について、ざっと考えてみたいと思います。
一般には、「階層構造」を持たせた組織が多いでしょうか。
普通、「組織の構成を考える」と言った場合、この階層構造を考えるところから入ることが多いと思います。
しかしここでは、まずはこの構造を一度取っ払い、人員を横一線、フラットに並べてしまうことにします。
フラットな組織にすると、肩書きはつきません。
世の中には、肩書きがないと不安に感じる人もいるようですが、慣れれば済む話です。
仕事の目的は、世の中に幸せを生み出すことであって、肩書きを得ることではないのですから。
階層構造を使う目的の一つに、「情報の伝達」をスムーズに行う、というのがあります。
トップダウンで情報を伝えるためには、この構造が適しています。
ですが、今はネットワークを使うことで一瞬で情報伝達できます。また、誰もが組織全体に発信できるようにすることも簡単にできます。
なので、情報の伝達という意味では、階層構造を使う必要性はありません。
階層構造によって組織を半ば固定してしまうと、縦割りの害が出てきます。
自分の位置付けが固定されてしまうために、自分の守備範囲外のことには興味を示さない人が増えます。また、「担当外のことに口出しするのは越権行為」という空気も生まれ、風通しが悪くなります。
そのために、「特定の個人による情報の囲い込み」のようなことがおき、組織力が生かされなくなってしまいます。
階層構造で組織を固定する代わりに、目的毎にプロジェクトを結成することを考えてみます。
プロジェクトは、必要な人材を集めて結成するわけですが、一人が複数のプロジェクトを掛け持ちすることも可能です。
例えば、各プロジェクトに経理担当者を入れておけば、経理の観点からもプロジェクトのあり方を考える、といったことができるようになります。
つまり、一人一人が特定の役割のみに限定されることなく、プロジェクト全体のことを考えることができます。
週3日労働を導入すれば、ライフスタイルは大きく変わってきます。
ここでは、そんな「ライフスタイルの変化」を書いてみたいと思います。
週3日労働であれば、休日の組み方を調整することで、多様な生活の仕方を実現できます。
うまくすれば、保育所等の空きも増え、柔軟な利用が可能になるでしょう。
世間の就業規則の中には、「副業禁止規定」なるものがあったりするようですが…就業時間外のことまでとやかく言われる筋合いはありません。
それこそ、「買い食いしちゃいけません」みたいな親子関係です。
いい大人が「買い食いしちゃいけません」なんて言われるの、恥ずかしいでしょ?それと同じレベルの恥ずかしい規定です。
というわけで、週3日労働で空いた時間を使い、趣味や特技を生かして副業を営んでみるのもいいと思います。
そういう生産は、社会を(特に文化的に)豊かにします。同時に、組織に依存しない自立した市民を生み出す効果もあります。
「今までの世の中の仕組みが通用しなくなっている」といった言葉を、新聞等で頻繁に目にします。
そんな問題に対する一つの解として、「週3日労働」を提案してみました。少なくとも、どうせ丸一日潰れてしまう「時短」よりは優れた方式だと思います。
うまく応用すれば、成熟社会において人間的な暮らしを送れる良い方法だと、思うのですけどね。
ずっとかかる「ランニングコスト」に対して、最初だけかかる費用のこと。
例えば、200万円の車を買った場合、初期コストは200万円。
5年しか乗らなければ、1年当たり40万円、10年乗れば1年当たり20万円という計算になる。
このように、初期コストをかけて手に入れたものが、その後長く使えれば使えるほど、安くつく、俗に言う「元が取れた」ことになる。